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Explorer's Voice 〜先人の知恵〜
Vol.03
森 貞孝 さん
株式会社日進研
森 貞孝 さん
事業承継第3回は、大学在学中に始めた家庭教師がきっかけで学習塾をスタートし、都内有数の進学塾として成長させつつ、業界全体を「教育支援業」として社会に認知してもらうべく力を尽くされ、現在も大きな貢献を続けている森貞孝さんです。 家族へ承継した会社はソフトウェア事業へと意外な方向へ舵を切り、今再び教育と結びつこうとしています。お話を伺って見えてきたのは、周囲を助ける、求めに応じる。あるがままを受け入れながら、良いところを伸ばしていく。そんな天性の「教育者」としてのお姿でした。
  • 本人プロフィール
    慶應義塾大学経済学部に在学中、周囲に請われ学習塾を開塾。代表取締役としての業務の他、全国進学指導協会会長、私塾協議会会長など塾団体の要職を歴任した後、1988年社団法人全国学習塾協会設立と共に副理事長就任、翌89年理事長。また92年には全国学習塾協同組合の設立に携わって業界の地位向上に尽力し、現在も理事長をつとめる。
  • 会社プロフィール
    株式会社日進研
    〒171-0022
    東京都豊島区南池袋1-10-13 荒井ビル 2F
    http://www.nisshinken.com/

    1958年5月、学習塾を神奈川県川崎市にて創業。63年東京都文京区へ移転し「日本進学研究会」とする。75年3月に株式会社へ改組。都内で十数か所の教室を抱える有名進学塾となる。2003年社名を「日進研」とし、ソフトウェア事業を立ち上げ、ゲーム企業大手のもとで各種コンシューマー機、SNSなどに向けたOEMソフト開発を行う。2007年には新たに教育企画事業部を発足し、創業時の教育業と融合したサービス展開をスタートしている。
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もう事業承継はできないのかな、
と諦めていました
1.もう事業承継はできないのかな、と諦めていました
森さんは慶應義塾大学に在学中、学習塾を始めたと伺いました。
いわゆる「ベンチャー精神」で起業されたということでしょうか?
いや、そうでもないんです。元々僕は東京の現在いるところで育ったのですが、戦中・戦後の時期に疎開をして、受験生の頃には伊豆にいました。それで大学に受かったので東京に戻ることになり、姉の伝手で神奈川県川崎市で下宿生活を始めました。
すると下宿先のおばさんが「あなたね、親の金でのんびり遊んで大学に通うなんてダメな人間になるんじゃないよ。自分の食い扶持くらい、自分で稼がないと」と言うんです。

確かにそうですね、なんて返事をしたところ「だったら家庭教師をやりなさい。実はもう知人から頼まれてある」と言い出しました。どうも私のことを周囲に言って回ったらしいんです。驚いていると「週2回、3500円でどうだ」。
当時一般的なアルバイトの日給から考えると、かなりいい話でした。ところが「小学生と中学生を合わせて7人。1人500円で合計3500円」(笑)。思っていたのと違いはありますが、それだけ貰えるならアルバイトを探さなくていいし、いっそ週3回3500円でいいですよと答えました。

生徒7人というのが、それぞれ3人・3人・2人のご兄弟でしたから、月・水・金と持ち回りで各家庭に7人が集まり、そこへ伺って教えることになりました。それで半年ほどたつと全員の成績が一気に上がったものですから、噂が広まって「ウチの子もお願いできないか」という人が出てきます。でも教えるスペースがありません。
すると下宿先のおばさんが、今度は「いいアイデアがある。道に面した部屋の壁をとっぱらって教室にしてやるから、そこで塾を始めなさい。実はもう追加で入ってくる生徒の話もつけてある」。
ずいぶんやり手の方だったんですね(笑)。
ですよね。でもそんな改装費、私には出せませんよと言ったら、知り合いの大工に安くしてもらえるし、工事費用は月賦で払ってくれたら大丈夫だと(笑)。
こうして家庭教師のアルバイトが、あれよあれよと学習塾を開く話になりました。生徒は25人ほどに増えていて、1人じゃ教えきれない。同じ大学のゼミの友人に頼んでみんなで教え始めました。

ところが1年もすると、おばさんが「もうやめてくれないか」と言い出します。夜9時をすぎても子どもたちがにぎやかで眠れないと。そう言われるとしょうがないので、「ご近所迷惑ですから塾を閉めようと思います」と保護者の皆さんに報告しました。すると「子どもが来年受験なのに困る。いい場所があれば続けてくれるのか」。そうしていくつか候補が出てきて、近くの幼稚園が放課後の建物を使わせてくれるというので、そちらに移転を決めました。

すると移った途端、生徒が70人に増えてしまいました。自分が望んで始めたことじゃないですから、当時塾の名称もろくに考えていなかったくらいなのにです。
幼稚園の方でも、最初は乗り気じゃなかった園長先生が評判に気をよくして「私が口利きすればあなたのお子さんも入れてあげられるよ」なんて吹聴するものですから、生徒がさらに増えて150人くらいになりました。
いよいよやめられなくなってきました。
大学4年生になると就職活動がありますから、仲間は大手商社などに内定していく。もう塾で教える時間がなくなるし、自分もこのままでは就職に困るぞと思って焦り始めました。
すると生徒の授業が終わった後、夜に保護者の皆さんが入れ替わり立ち替わりにお越しになって「せっかく成績が上がってきたんだから、見捨てないでくれ」と直談判されるんです。
結局、就職活動ができないまま大学を卒業。仲間はみんな就職して離れてしまいました。

さてどうしたものかと考えました。就職後の話を聞くとみんな激務で大変そうだし、とりあえず公認会計士の勉強でもして、塾が傾くようなら会計士になろうと思い、学習塾を続行することにしました。
ところが生徒はさらに増えるし、業務に忙しくて勉強がはかどらない。商社マンになった仲間は世界を股にかけて活躍しているのに、自分はこうやって幼稚園で勉強を教えて人生を費やすのかな、それは嫌だな、と考えました。

そうして30歳の時、「全力で塾をやる。伸びるなら続ける。伸びないなら縮小して資格を取ることに力を入れる」と決めました。
だったら川崎より都内で教える方が伸びるだろう。だったら東京大学、東京教育大学(現・筑波大学)のある文京区だろう。そこでいっぱしのものになれば自分の気も済むんじゃないか。そんな風に考えて文京区の茗荷谷にある、その名も「教育ビル」の2階を借りて本気になって塾を運営することにしました。

茗荷谷という立地選びが奏功して、東大、早大などの優秀なポストドクター(大学院博士後期課程を修了した後の任期制研究職)がアルバイト講師として集まってくれました。
生徒募集も順調ですぐに教室が手狭になり、最終的にはビルの2階をほとんど借り、さらに近くのビルも借りて計12教室。他に「こちらでもやってくれないか」と誘われて、蒲田、大森、豊田、坂戸、五反田、平和島、朝霞などと一気に教室が増えていきました。
子どもの多い時代ということもあって、
爆発的に成長したわけですね。
小学5〜6年限定で中学受験をやって合格させる。そういう塾です。入塾希望が多いので、当時は1月と2月の2回、入塾試験をやりました。
そんなある日、35歳くらいだったかな、ビルの1階にあった書店が突然閉店しました。生徒はそこで教材を買いそろえていたので、店がなくなったら池袋あたりまで行ってもらわないといけない。

生徒は教材購入に1人2万円くらい使います。当時、茗荷谷教室の生徒数が500人くらいですから数日で1000万円は売り上げるわけです。聞くと事情があったとはいえ、その売上でも閉店するのかと驚きました。それで書店取次の方などに店を引き継げる人がいないか尋ねたら「あなたがやればいいじゃないですか」。そこで翌月からそのまま書店を引き継ぎました。売り上げは順調で、のちには埼玉県でも一店舗増やしました。他に、10カ所くらいの塾が集まって都内全域約1万人の私立受験の合格判定テストにも誘われて、こちらは毎年3回実施しました。
そんな調子で塾の規模はさらに大きくなって、都内の塾が集まる時には必ず声をかけられるようにもなります。当時はまだ現在のような大規模フランチャイズの塾がなく、山手線の内側に本部があって生徒2000人規模というのは珍しかったですから。

ただ当時は各地に大小さまざまな塾が林立して、全国にどのくらいの数があるのか、どのくらいの生徒が学んでいるのか、といった実態がほとんど分かっていませんでした。業界としても社会的に認められているとは言いがたい状況があったのです。
そこで学習塾の全国団体を作ろうと5つほどの全国規模の塾団体が集まり、「社団法人全国学習塾協会」を設立する話になり、発起人として参加したらそのまま副理事長に推され、半年後には理事長にさせられました。このとき51歳です。

他の団体でもいくつか代表をしていたので、毎朝5時半に起きて7時から本屋の開店準備をして、9時に塾団体の事務所に行って事務や折衝に飛び回って、夕方になったら自分の塾で教えて、22時半くらいで授業を終えたら本屋に戻って0時にレジを締めて深夜1時すぎに帰宅。また5時半になったら家を出る。そういうサイクルの生活になりました。
とにかく毎日忙しくて体力的にもつらくなっていったので、55歳くらいから「60歳までに目処をつけて息子に事業を譲ろう」と考え始めました。

ところがその話をしようとした長男はコンピュータにのめり込んでいて、プログラミングで学生時代から評価を得ており、そのまま某大手IT企業に入ってしまいました。
じゃあ次男は、と考えましたが同じくソフトウェアで仲間と起業して、その後も某大手通信会社に行ってしまった。家族で事業承継はできないな、と諦めてしまいました。
そこで社内の者に話をしたら何人かはのれん分けの形で独立しましたが、会社そのものを譲り渡すには至りませんでした。
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